喜望峰から、ホーン 岬まで
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( 4-3、 ガ マ 三度目の インド 派遣と その 死 ) 62 歳の彼は 1522 年に ジョアン 3 世から 三度目の インド 派遣を命 じられ 14 隻の船団で出発 しま したが、10 隻は インド からの交易品積載用の大型船で 4 隻は軽快な小型船で した。 その目的は インド 領における腐敗堕落 した ポルトガル 人総督以下の 役人 ・ 軍人 ・ インド 常駐艦船 乗組員の 綱紀粛正 ( こうきしゅくせい、権力を持つ者の態度を正すこと ) と、 王室の歳入を増加させる ことで した。 しか し任務半ばの 1524 年 12 月 25 日に 大航海時代における ポルトガル を代表する 探検家 ・ 航海者 の バスコ ・ ダ ・ ガ マ は、 インド の コチン において病気により 64 歳で その生涯を閉 じま した。 [ 5 : マゼラン海峡 ]![]() ![]() ( 5-1、 船乗りの墓場 ) この付近の海域は年中吹く西寄りの強い風 ・ 大きな波 ・ 西から東に流れる強い南極環流の ホーン 岬 海流 ・ 南極から流れ出る氷山のために、帆船時代には悪名高い「 船乗りの墓場 」 と言われてきま した。 学生時代に習った言葉に、 「 The roaring forties, the furious fifties, and the screaming sixties 」、 吠える ( 南緯 ) 4 0 度 、荒れ狂う 5 0 度 、絶叫する 6 0 度 というのがありま した。 ホーン 岬は前述したように 南緯 5 5 度 5 8 分 3 8.3 秒ですので、帆船時代に ホーン 岬を通過する際には、荒れ狂う嵐の危険に必死に立ち向かう必要がありま した。 昔読んだ本によれば、帆船時代に前述 した アフリカの 「 喜望峰 ( 嵐の岬 )」 か、南米の 「 ホーン 岬 」 を通過 した経験を持つ水夫は、港の酒場の テーブル に片足を乗せて ( つまり大きな顔を して ) 酒を飲んでも良く、両方の岬を通過 した経験を持つ水夫は、 両足を乗せても良い と言われていま した。 ![]() ![]() ところで第 5 管区海上保安本部 ( 神戸 ) の発表によれば、 2016 年 1 月 27 日、ヨット で無寄港の世界 一周を目指 していた大阪市 住之江区の浜口純一さん ( 67 歳 ) が、南米の チ リ 沖で遭難 し 民間の船舶に救助されたと明らかに しま した。激 しい波で ヨット に浸水 したとみられるが、ケガ はなかったとのことで した。 浜口さんは日本時間の 1 月 26 日午後 6 時 35 分ごろ、南米最南端の ホーン 岬から約 550 キロ の沖合を航行中に、日本在住の知人男性を通 じて 海の 110 番に当たる 118 番に連絡 した。そこで海上保安庁が チリ 側に救助を要請 し、1 月 27 日午後 2 時ごろ、付近を航行 していた民間の貨物船に救出された。なお浜口さんは 2015 年 10 月 8 日に、大阪府 泉北郡 忠岡町の係留場所から出発 したもので、小型 ヨット( 全長約 11・5 メートル )に乗り ニュージーランド まで南下 した後、ホーン 岬に向けて東向きに航行 していま した。浜口さんは近く チリ 海軍によって同国内に移送される見通 しとのことで した。帆船にとって ホーン 岬周辺は、現在も最大の難所であることは変わっていません。 ( 5-2、バッド ・ セイラー ) バッド ・ セイラー( bad sailor 、悪い水夫 ) という言葉があるのを御存 じですか?。 研究社の新和英大辞典によれば、船に弱い人のことを bad ( poor ) sailor というのだそうです。荒れた海を経験 したことの無 い人は、 この動画を御覧下さい 私は陸上の列車や 車 ・ バス で乗り物酔 い したことはありませんが、 海上保安大学の練習船で揺れに遭うとすぐに船酔 い しま した。私の乗り物 酔 い歴については、下記をお読み下さい。 乗り物酔 い体験記 (1) 乗り物酔 い体験記 (2) [ 初飛行で、初酔 い ] [ 6 : マゼラン のこと ]![]() 西へ航海すれば インド へ到達が可能であり、アフリカ を回るよりも 「 香料の産地 」 である モルッカ 諸島へは近いと思われる。と進言 し、さらに世界を 一周することにより 「 地球の 球体説 」 を証明 したい 旨を述べま した。 カルロス 1 世の許可を得た マゼラン は早速航海の準備に入りましたが、食料は 二年分を用意 しま した。それらは、
( 6-1、マゼラン の 戦死 ) さらに西に向けて航海を続けて フィリピン 諸島の マッサワ 島 (?)に到達 しま したが、そこで 乗組んでいた奴隷の エンリケ と島民との間で言葉が通 じたことから、西回りで世界を半周 したことが確認されま した。 マゼラン は一行は カルロス 1 世との約束である未開の地における キリスト 教の布教活動をおこなった結果、この島の族長も近くの セブ 島の族長も キリスト 教徒になりま した。族長がキリスト教徒になったことで大勢が洗礼を受け、フィリピン は アジア では数少ない キリスト 教国になりま したが、マゼラン の布教が契機になりま した。 しか し マクタン 島の族長だけは例外で、布教に反対 しました。そこで マゼラン は武力で制圧することに し、500 人の敵に対 して僅か 60 人で戦闘を開始 しま した。 優秀な武器や甲冑 ( かっちゅう、よろいかぶと ) で武装 していましたが多勢に無勢で、マゼラン と彼の多数の部下は マクタン 島民との戦闘で 死亡 して しまいま したが、 1521 年 4 月 27 日 のことで した。ちなみに マクタン 島には マゼラン の侵略から島の独立を守った 族長 ラプ ・ ラプ ( Lap-Lap ) の銅像 があります。 [ 7 : モルッカ 諸島へ ]マゼラン と二人の船長を含む多数の人員を失った 三隻の船団は、その後 香料で有名な モルッカ 諸島 ( 別名、スパイス の島、Spice Islands ) に向かいま したが、 セビリャ 出港時には 二百七十 名 いた乗組員も今では 百十五 名 しか残っていませんで した。 さらに今後の長期の航海に備え 古くなった船体を補強するために、三隻のうち浸水の著 しい コンセプシオン 号 を犠牲に して、釘 1 本、帆綱 1 本まで使用できるものは全て剥ぎ取り他の 二隻に移 し、残った船体を放火焼却 しま した。その結果残った船はマゼラン のかつての乗船 トリニダード 号 ( 110 トン ) と、小さくて見栄えの しない ビクトリア 号 ( 85 トン ) の二隻になりま した。 船隊は 1521 年 11 月 8 日に、五つの香料諸島のうちの一つに上陸 しま したが、この島では スペイン 人が欲 しいもの、即ち 「 コショウ 」 を除く貴重な香辛料 ・ 食料品 ・ 砂金などは いくらでも手に入りま した。親切な王は自分の島にないものは、近くの島々から調達 してくれま した。( 7-1、喜望峰回りの航海 ) 大量の香辛料を積込むと トリニダード 号の老朽化による船体浸水が著 しく航海の安全性に疑問を生 じたため、修理が済むまで 五十名以上の乗組員は島に残留 し、その後は太平洋を逆方向 ( 東向きの針路 ) に横断 して パナマ 付近にある スペイン の植民地に行くことと し、デル ・ カーノ ( Del Cano ) 船長指揮する ビクトリア 号だけが アフリカ 大陸の喜望峰を経由 して帰国することになり 四十九 名の乗組員と、七 万 ポンド ( 31 トン ) もの貴重な香辛料を搭載 して出航 しました。 彼は部下に 五ヶ月分の食料を用意させま したが、ティモール島では塩が十分に入手できなかったため、その後は インド 洋の灼熱の太陽の下で食肉がたちまち腐り始め投棄せざるを得なくなり、食料としては米と水だけになりま した。さらに 死神 である例の壊血病 も出始めま した。 マゼラン の世界 一周航海を阻止 しようとする ポルトガル の行動も分かっていたので、 ポルトガル船のいる港には立ち寄ることなく 五ヶ月にわたる航海を続けま したが、食料の残りが数日となったため、アフリカ 西岸にある ポルトガル 植民地のある ベルデ 岬 ( Cabo Verde、現 ・ セネガル 領内 ) に入港 し、ポルトガル 船のふりを して水や食料の補給を受け、スペイン に向けて航海を続けま した。 ( 7-2、ピガフェッタ の発見 ) ベルデ 岬での滞留はごく短い時間で したが、マゼラン の トリニダード 号に乗り 香料諸島で ビクトリア 号に移動 した 記録係の アントニオ ・ ピガフェッタ ( Antonio Pigafetta、1491~1534 年 ) は、ベルデ 岬で人類初の貴重な体験を しま した。 船ではその日は 水 曜日のはずで したが、食料を買いに ボート で上陸 した水夫が帰って来て言うには、陸では 木 曜日だというのです。 ![]() 西回りに地球を 一周すると、 曜日が翌日になった。という事実を発見 しま した。 現代風に言えば、日付変更線 ( International Date Line ) を東から西に通過 したので、翌日になったということですが、ここで質問です。 ピガフェッタ や アルポ たちにとって 水曜日の夜 はどうなったので しょうか?。 [ 8 : 帰国 ]古くなった船体外板の継ぎ目からの絶え間ない浸水を、乗組員たちは昼夜交代で 二台の排水 ポンプ を動か しながら スペイン の港へと航海を続けま したが、1522 年 9 月 6 日に出発した時と同じ、グアダルキビル 川の河口の港町 サン ・ ルーカル に今にも沈みそうな ボロ 船 ビクトリア 号はようやく帰港 しま した。 デル ・ カーノ 船長が最初に したことは世界 一周に成功 したとする重大な知らせを、手紙に書いて カルロス 1 世 ( = 神聖 ローマ 皇帝 カール 5 世 ) に送ることで した。翌朝 ビクトリア 号には川をさかのぼる力はなく、別の ボート が ビクトリア 号を曳航 して上流にある セ ビ リャ に向かいま した。三年前に セ ビ リャ を出港 した際には 五隻の船に 二百七十 名が乗組んでいま したが、生きて帰国できたのは僅か 一隻に 衰弱 しきった 十八名 の乗組員だけで した。( 8-1、その成果 ) 「 マゼラン 船団の生き残り 」 が地球を 一周 して スペイン の セ ビ リャ に帰国 したという知らせは、すぐに全 ヨーロッパ に広がり驚きと称賛をもたら しま した。地球は回転する円い球体であり、すべての海はつながっていることを証明 したことで、それまでの 宇宙論 ・ 天動説 ・ キリスト教会の説は否定されま した。 さらに ビクトリア 号の積荷であった 七 万 ポンド ( 31 トン ) の香辛料の売却代金は、他の 四隻の船体喪失を完全に補い、その上 更に巨額な金銭的利益を スペイン にもたら しま した。---二百五十名 以上の人命損失を除外すれば。 マゼランの功績は ピガフェッタ の正確な記録により、後世に伝えられていますが、ポルトガル では スペイン の船団を指揮 して世界一周航海を途中までおこなったことは、祖国 ポルトガル の権益拡張に対する裏切行為であると して、また スペイン では大量の香料を初めてもたら したのは スペイン 人の デル ・ カーノ 船長であると して、マゼラン の功績に対 して 両国とも意図的に 過小評価 していま した。( 終わり )
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